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オタフクソースの歴史と原点

2016.01.20
オタフクホールディングス株式会社 会長 佐々木尉文
佐々木尉文
佐々木 尉文
1958年4月 お多福造酢株式会社に入社。1969年に取締役就任、1971年 常務取締役、1979年 専務取締役、1998年10月に代表取締役社長、2005年 会長、お多福グループ代表、2009年にお多福グループ(株)<現 オタフクホールディングス>会長に就任、現在に至る。広島商工会議所 副会頭

オタフクソースは酒と醤油の小売業として大正11年に創業を致しました。以来93年間、大きく移り変わる時代の中で幾多の壁を乗り越えてまいりましたが、常にその支えとなったのが、創業者 佐々木清一が常に説いていた理念でした。この「創発の泉」では、オタフクソースの歴史やその原点となっている私たちの理念を紹介を致します。

創業者 佐々木清一と商売の原点

私の父である佐々木清一が創業した、酒・醤油の小売業の「佐々木商店」がオタフクソースの出発点です。当時の日本経済は、第一次世界大戦を上げ潮として目覚ましい発展を上げたものの、その後の反動恐慌や関東大震災などにより、わずか十数年の間に慌ただしい落差で好景気と不景気の干満が訪れており、商売人にとっても生活者にとっても、まさに激動・激変の時代でした。創業者もそのような時代の荒波の中で多額の借金を負い、手持ちの現金に困っていても、度重なる不況に困窮しているお客様からは「お金がある時で良いから」と無理に回収をする事はしませんでした。もともと創業者は信心深い人で、「周りの人々が幸せになってもらう事が最終的には自分の幸せにつながる。」と説いていました。私たちはこれを「お多福の心」として、たらいの水に例えて、新たに仲間になった社員にも説明をしています。たらいの中の水を自分の方に寄せようと一生懸命動かしても、手の動きを止めると水が向こう側へ逃げてしまいますが、相手の方に水を差し上げようと手を動かすと、その水が跳ね返って自分の方に寄ってきます。商売も水や風と同じで、単に利益を上げたり、幸せを自分の方に集め寄せるのではなく、世の中に幸せを願って行う事が、やがて自分のところへ帰って来る、という節理です。愚直にまじめに商売を続けた創業者の考えは、今日のお多福グループの商売の原点となっています。

醸造酢への挑戦

佐々木商店は昭和13年に酢の醸造を開始します。

「多くの方に喜んで頂ける製品を造りたい。」これは、創業者が常に描いていた商売人としてのロマンだったのだろうと思います。小売業として醤油や酒を扱っていた事に加えて、運よく醸造許可を取得出来た事もあり、酢の醸造にチャレンジしますが、何分にも酢造りについては全くの素人。加えて、時代は戦争の色が濃くなり、原料は元より人手の確保も難しくなっていました。また、当時の製造工程は当然の事ながら全て手作業で、原料の米を運ぶ事から始め、その米を大きな桶に入れて洗浄・浸漬・蒸米・製麹と愛情をこめて丁寧に麹を育て、それから糖化した原料を時間をかけてアルコールから酢酸へと発酵を進ませ、まろやかに熟成させた原酢を醸造させていました。

健康的で味わい深い食酢。そのような天然の味覚を作る為には、文字通り大自然の恵みとして付与された原料を、慈しむように大切に想いながら上手に調合させる事が大切なことであると、創業者は社員と共に試行錯誤を重ねつつ体得したのです。

佐々木商店の生粋のオリジナル商品で、後年ソースづくりの元となる醸造酢はこのようにして誕生致しました。

佐々木商店 大正11年 広島市横川3丁目で創業した佐々木商店。左から2番目が創業者

お多福に込めた願い

苦労を重ねて作った醸造酢に創業者は"お多福酢"と命名しました。お多福は"於多福"とも書き、「福を多くの人に広める」という意味があります。佐々木商店は、後に株式会社として「お多福造酢」を経て「オタフクソース」へと移行していきますが、その社名は創業者が昭和13年に作り出した「お多福酢」に由来しています。

今だからこそ言えますが、私が若い頃は「まいど、お多福です。」と営業先で挨拶する事に気恥ずかしさを感じていました。何故なら、日本古来のユニークな顔として"ひょっとこ"と並び称される"お多福"の顔は、外見だけで判断するなら決して美人の相ではないからです。しかしながら、いつも笑顔を絶やさない(細い目)、謙虚な姿勢(低い鼻)、 ひかえめで無駄口を言わない(小さな口)、聞く耳を持つ(大きな耳)、心身ともに健康(ふくよかな頬)、聡明で賢い(広い額)は、その内面の美しさを十二分に表しているとも言えます。精魂込めて酢を造り、少しでも多くの人々に喜んで頂きたいと心底思っていた創業者は、世の中の平和と幸せを望む象徴として、心の美人である「お多福」を製品の銘柄名に選んだに違いありません。

原爆投下 そしてゼロからの再出発

昭和20年8月6日、6歳だった私はその日の朝、近所のおじちゃんに抱かれて佐々木商店の店先にいて空を飛ぶB29を見ていました。

「やっちゃん、見てみんさい。またB29が飛んできたわ」

私は銀色に光る機体が眩しくて、おじちゃんの影に隠れて空を仰ぎ見ると、黒い物体(原子爆弾)についた落下傘が見えてきました。そして次の瞬間、強烈な閃光と大爆音が鳴り響き、10m離れた店の中に吹き飛ばされたのを覚えています。広島は爆心地周辺の殆どの建物が一瞬のうちに倒壊し、周辺はあっという間に火の海に包まれたと言います。爆心地から1.6Kmにあった佐々木商店も同様に全て消失しました。広島の原爆投下で昭和20年中に約14万人が亡くなったと推定されていますが、母と私が多少の怪我を負ったものの、両親・兄弟ともに全員が無事だったという事は奇跡的な事でした。

○キ食堂 本社社員食堂(○キ食堂)の壁面画像。
絵が得意な社員が当時の様子をイメージして書いた

―だからこそ食べて生きていかなくてはならない。―

見渡す限り焼け野原になった中で、父は再建に向けて必死に自分を奮い立たせたのだろうと思います。 そして昭和21年、全てを失った中からの酢造りは時間が掛かる事から、店の焼け跡にバラックを立て、まずは食堂(マルキ食堂)をオープンさせます。県北部の農家の方から大量に提供頂いた麦で蒸しパンを作り、簡単なおかずを添えて出したところ、あっという間に売り切れる程の人気だったと聞いています。深刻な食糧難の時代でしたが、人のご縁に助けられて、なんとか食堂を軌道に乗せることが出来ました。ちなみに、平成26年8月に弊社は本社に社員食堂を作りましたが、その施設名も当時の食堂の名前から命名しています。その後、広島市内の酒蔵を借り受けて酢の醸造に再び取組み、昭和22年3月に創業者が手塩にかけて醸造した「お多福酢」を再び市場に送り出したのです。

お好みソース誕生!

「これからは洋食の時代じゃ。日本の食生活は洋食化が進むじゃろうけぇ、ソースを作ってみんさいや」と醸造器具の販売員をされていた方から助言を受けました。時は昭和24年、私の兄である繁明が家業に入ったのを機にソースづくりが動き始めます。そして昭和25年10月、およそ1年がかりで開発した佐々木商店の第一号ソース「お多福ウスターソース」は世に送り出されます。

ところで、原爆で焼け野原となった広島市も昭和25年頃から、少しずつインフラが整い始めていました。同時に数件のお好み焼の屋台も登場し始めました。かつての一銭洋食が進化した食べ物は、この頃から「お好み焼」と呼ばれるようになります。主に使われる野菜もネギからキャベツへと変わってきていました。ただ、当時はまだ豚肉や卵は高価なぜいたく品であった為、よほどの事が無い限り、お好み焼に入れる事はありませんでした。現在の広島お好み焼の定番と言われる「肉玉そば」や「肉玉うどん」が広く食べられるようになったのは、もっと後年になってからの事です。また、当時のお好み焼には、通常ウスターソースが使用されていました。サラサラとしたウスターソースは香ばしく良い匂いがしますが、直ぐに鉄板の上で蒸発をしてしまいます。お好み焼店によっては、独自にソースを工夫しているところがありましたが、お好み焼にあうソースが無い、といった潜在ニーズも顕在化しつつありました。

さて、新たな時代へ向けた夢の商品「お多福ウスターソース」ですが、既に広島にもソースメーカーがあり、新参メーカーの弊社製品は小売店や卸問屋に中々扱って頂く事が出来ませんでした。やむなく、営業先は直接扱って頂ける飲食店や、増えつつあったお好み焼店に限られましたが、お好み焼店をこまめに回るうちに、前述のソースに関する実情や課題が見えてきました。結果的にこの事が佐々木商店にとって大きな力となっていきます。問屋に相手にされないからやむなく始めた飲食店の営業の中で、お客様の生の声を直接聞き、その問題点を解決すべく求められるものをつくるこそが、我々に与えられた使命なのだと悟ったからです。

「うちが代わりに、"お好みのソース"をつくりますけぇ。」

これが、後に誕生するお好み焼専用ソース開発の出発点でした。

ただ、店主の要望は厳しかった。「ちいと、しょっぱい」、「甘すぎる」、「酸っぱいのお」ご意見やご指摘を都度頂きながら、事細かく味を加減し何度も作り変えました。また、ソースを製造した釜やタンクの底に出来た沈殿物(オリ)も何とか利用出来ないか、そういった試みを繰り返した結果、昭和27年にオリとデンプン質でとろみを出した、お好み焼用ソースを完成させたのです。 はじめうちは「こんなドロドロしたソースは気持ち悪いねえ」「ほんまにおいしいんか?」と疑問視されていましたが、そのとろみがお好み焼に合う事や、ウスターソースにはないまろやかな味を次第に認めて頂けるようになりました。

ものづくりの原点、一滴一滴に性根を入れて・・・

佐々木商店初のオリジナル商品であるお多福酢同様、お好みソースも素人が試行錯誤を繰り返し、お客様に教えられ、世の中にない商品をつくろうと生みの苦しみを経て開発した商品です。ソースメーカーとして新参者だったからこそ出来るチャレンジ精神の賜物だったと思います。そしてそれ以降も、私たちはそのチャレンジ精神を発揮し、当時まだ無かったお寿司用の合わせ酢などを順次開発をしました。現在では私たちが製造するアイテム数は約2000近くに上りますが、今でも調味料の味を決める際は、自分の舌を信じて、繰返し、繰返し材料の微調整の努力を積み重ねて、真心と性根を込めたものをつくり上げる事を目指しています。

「人が口にするものを作るという事は、お客様の健康を預かっているという事。体に良くない原料は一滴たりとも使ってはならん」、「ものを作るには、性根を入れて作ったものでないと売れないし、売ってはならない。」と創業者は常に話していました。これは私たちメーカーの使命として、これまでに社員に伝えてきたことであり、これからも継承していくべき、ものづくりの原点であると考えています。