合同会社ジンバル/Gimbal LLC

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No1より
オンリー1を目指して・・・

2016.04.05
オタフクホールディングス株式会社 会長 佐々木尉文
佐々木尉文
佐々木 尉文
1958年4月 お多福造酢株式会社に入社。1969年に取締役就任、1971年 常務取締役、1979年 専務取締役、1998年10月に代表取締役社長、2005年 会長、お多福グループ代表、2009年にお多福グループ(株)<現 オタフクホールディングス>会長に就任、現在に至る。広島商工会議所 副会頭

戦後、ソース製造に着手した弊社ですが、その販路を広島市から広島県、瀬戸内圏といった具合に少しずつ拡大していきました。事業を展開する際には、チャンスがあれば逃すことなく販路を拡大すべきですが、弊社はあえて無理をせず、良い製品を安定した品質で提供出来るような体制になってから全国展開へ踏み切りました。今回は当時の時代背景と共にその経緯を紹介します。

ニッチな小さな市場だからこそチャレンジする

弊社がソース製造に着手し始めた頃、広島市でも既に多くのブランドがウスターソースを製造・販売していました。一方で、原爆で焼け野原になった広島市で鉄板を用いた屋台のお好み焼屋が出来始めていた中で、さらさらとしたウスターでは鉄板に流れ落ちてしまうといったお客様のお困りごとを解決すべく、お客様と共に開発したお好みソースの誕生経緯は前回紹介した通りです。

さて、当時のお好み焼屋は小資本で屋台での営業をしていましたので、商売相手として回収リスクの懸念がありました。また、小さな市場でもあった為、既存メーカーはあまり注力をしていませんでした。そういった小さなニッチな市場に参入した弊社のやり方を、今どきの言葉で言うならば、「ブルーオーシャン戦略」に当てはまるのかもしれません。然しながら、当時の市場には先発のソースメーカーの製品は既に多く存在しており、後発である私たちの製品を受け入れてもらう事が出来ませんでした。それ故にニッチな市場を開拓せざるを得なかったという方が事実だと思います。戦後の混乱から復興しつつあったあの時代は、お客様も私たちも生き残る為に必死だった。だからこそ、真剣に商品を改良・開発し、市場創造につなげる事が出来たのだと思います。

昨今、事業展開について意見を求められる事がありますが、弊社の歴史を踏まえ私は「市場参入をする際は、既存の大きなマーケットを狙うという選択肢もあるが、あえて小さなニッチな市場をターゲットにする方が良い。何故なら市場規模が小さい場合、競合が少ないという事もあるが、必死で努力すれば市場を創造し拡大出来るし、その結果得るものも大きく成功率も高い」とアドバイスをしているのです。

新たな時代の幕開け

オタフクソース

オタフクソース
お好み焼用として販売していた

「もはや戦後ではない」

経済白書が高らかに謳った昭和30年代は、テレビ・洗濯機・冷蔵庫といった三種の神器が一般家庭に普及し、日本人のライフスタイルが劇的に変化した時代です。昭和32年頃には、被爆後の復興途上にあった広島でも、都市機能の整備が大幅に進展し、この年の7月には原爆ドーム横には、旧広島市民球場が落成、焼け野原からの再生のシンボルとして進化していた「広島お好み焼」も、この頃になると完全に市民権を得た存在となっていました。さらに、市内の繁華街の一角には、お好み焼の屋台村が形成され、併せて市内各所には、主に女性主人が営むお好み焼店も急増していました。その頃、「オタフクソース お好み焼用」を販売していたお好み焼店からの注文が驚くほど増えていました。その理由を店に尋ねたところ、「(お好み焼店の)お客さんから、家でも使いたいという要望が増えている。持参した容器に分けてあげている。」という返答でした。同じく、消費者の方々からも、お好みソースを購入したいといった問い合わせが度々寄せられており、こういった声に後押しをされ、当初は業務店向けだった「オタフクソース お好み焼用」を「オタフクお好みソース」と商品名を変えて、家庭向けに二合瓶で昭和32年に発売しました。

さて、その頃高校生だった私の夢は、商社マンになってアメリカへ行く事でしたが、進路を決める時、「兄弟が力を合わせて家業を継いで支えて欲しい」と父に望まれ、昭和33年春に、既に家業を手伝っていた3人の兄たちが待つ"お多福造酢株式会社"に入社しました。そして4年後の昭和37年、経済発展しつつあった広島県東部の福山市に初めての営業所を開所した際、私は営業所長として赴任したのです。

デーツとの出会いと社名変更

昭和48年に第4次中東戦争が勃発し、それを発端に深刻な石油危機が日本を襲いましたが、その影響はソース業界にも及びます。野菜・果実、香辛料、砂糖などの原料は軒並み高騰し、全糖でお好みソースを製造していた弊社の台所事情も苦しくなっていました。そのような中、私の兄が業界団体の視察旅行で訪れたイギリスのソースメーカーで、デーツ(ナツメヤシ)を目にします。現在のお好みソースにはデーツを多く使用していますが、これが私たちとデーツの出会いとなりました。現地でデーツに大いに興味を持った兄が帰国後デーツについて詳しく調査したところ、ミネラルや鉄分、食物繊維が豊富に含まれた栄養価が高い果物である事が判明したのです。その後、昭和50年にソースの業界団体がデーツを一括して輸入する事になり、高騰するばかりの砂糖の代替品としてデーツを使用する事になりました。

この年、弊社はもう一つ大きな出来事が起きます。昭和27年に「お多福造酢株式会社」を設立しましたが、この頃には創業商品の酢よりもソースの売上が多くなり、お客様からも ソース会社として認識されるようになり、「おたくは"造酢"と書いて"ソース"と読むのか」といった質問を頂く事も多くなっていました。また会社も個人商店から企業へと変革する段階に差しかかっており、企業としてより高く羽ばたく為に、ブランド名と直結した社名にする事にしました。こうして、昭和50年の12月にオタフクソース株式会社へと社名を変更したのです。

人に迷惑をかけちゃいけん

お好みソースは美味しさと健康を追求すべく、従来のウスターソースよりも野菜や果実が多く配合され、相対的に塩分や酸度が抑えられています。つまりウスターソースより防腐効果が得にくい上に、保存料等も一切使用していません。その為、お好みソースを開発した当初は、酵母が働いてソースが発酵し、「ソースを入れたウンスケ(かめ)が割れて店内がソースだらけになった。爆弾ソースじゃ」といった苦情が寄せられる事もありました。加えて社員数もまだ少なかった事から、昭和30年代前半までの販路は広島市内に留め、40年代に入ってからやっと広島県内の市場開拓へと順次照準を広げるといった具合でした。勿論、事業はもっと大きくしたいという夢は早くからありましたが、まだまだ地方の小さな企業でしたので、資本や社員などのリソースが十分でない事に加えて、ソースの味や品質に変化がないように安定させる為の技術や設備、体制が無かった事も理由の一つです。創業者が常に言っていた「人に迷惑をかけちゃいけん」という考えに基づき、安定した品質でお客様に製品を提供できるようになる迄は無理に販路を広げる事をせず、まずは足元を固め、仮にお客様からクレームを寄せられても、直ぐにお客様の元へ伺えるようにする、といった方針を取っていました。

さて、昭和50年に社名変更をした新生オタフクソースは、企業としてのビジョンを策定し、それ以降は中四国地方の瀬戸内経済圏を経て、西日本一帯へと順次販売エリアを広げていく事を将来構想として掲げたのでした。

新たな工場、新たな容器、そして全国展開へ

ビジョンの実現のベースには本社工場の移転計画がありました。当時、広島市西部の臨海部を埋め立てて、大規模な流通センターを整備する計画があり、既に昭和40年代後半から埋め立て工事がスタートしていました。当時の弊社の財務状況からすると、リスクが高い投資で、社内には反対の声も多くありました。しかし、それでも会社の夢の実現と自分たちの業界市場をさらに拡大させる為、その埋立地に新たな工場を建設する事にしたのです。そしてソースの原料を配管の中で煮炊きし、空気に触れさせずに充填するチューブヒーターという、当時としては斬新な設備も導入しました。加えて、工場内には前処理をしていない生野菜原料を持ち込まない衛生的な工場にした事により、混入した酵母で発酵しソース飛び散るといった事態からもようやく脱却出来ました。

ちょうどその頃、充填した製品を缶詰のように何とか日持ち出来ないだろうか、と考えていた私は新たな容器を思いつきました。当時既に牛乳やジュースは紙パックで充填をされていましたが、それをヒントに、紙パックの内側に薄いアルミ箔を貼り、缶詰状態にしたものを開発したのです。これは業界を先駆けるもので、お好みソースの他、既に開発販売していた焼そばソースやたこ焼ソースもお好み焼店向けの業務用商品として、この容器に変更して発売したところ、大きな話題と反響を呼びました。

初期のフクボトル

初期のフクボトル

そして、紙パックに続いて新たな容器開発にもチャレンジしました。当時、お好みソースの家庭用は壜の容器で販売をしていましたが、粘度があるため壜から出しにくいという指摘を多く頂いていました。一方で、低塩・低酸で保存料を使用していない為、壜のように気密性が高い容器でなければ品質が保てないといった事情もありました。その頃、ケチャップやマヨネーズに使われる樹脂容器はありましたが、肝心の気密性が足りず、ソースには向いていなかったのです。出しやすくて品質が保てる容器はないものか、と考えあぐねていた時、ガスバリア性が高い新しい樹脂が開発されたという新聞記事を偶然見かけました。

「そうだ、これを使えないだろうか」

そう思った私は、直ぐに容器メーカーに提案し共同開発に着手しました。然しながら、これぞと思って白羽の矢を立てた新樹脂でしたが、中々狙い通りにはいきませんでした。次々と直面する課題には私からもアイデアを出し、それを受けてメーカーが検討し提案を頂く、このような試行錯誤を幾度となく繰り返した結果、2年の歳月を経てようやく新たな容器が完成しました。この容器を私たちは「フクボトル」として名づけ、満を持して一般消費者向けにお好みソースを充填して販売をしたのです。そしてこれをきっかけに中四国・九州に次々と営業所を開設、昭和58年には東京と大阪にも駐在所を置く事で、やっと全国展開が出来たのです。

No1よりもオンリー1を目指し続ける

紙パックにしろ、フクボトルにしろ、私たちだけでは何も出来なかったと思います。まさに、その開発は容器メーカーのご協力があってなし得た事でした。また、容器メーカーの方が企業規模は大きかったのですが、よくも小さな地方の企業の声にお答え頂いたと今でも本当に感謝しています。開発の過程では、こちらから提示したアイデアや課題に対して、容器メーカーからご回答・ご提案を頂き、こちらも直ぐに評価をする、そういったスピード感をもった双方の真剣な対応を繰り返す事で、完成にこぎつける事が出来たのだと思います。そしてその原動力になったのは、何とかして日持ちする容器を開発したい、安定した品質の製品をお客様にお届け出来る容器を開発したい、という未解決課題への必死な思いでした。

他社がやっていない事、今困っている事の解決にチャレンジする事はとても大切なことです。難しい事にチャレンジするからこそ、それがイノベーションに繋がり、成功すればオンリー1になる事も出来るからです。また曳いてはそれがNo1へと結びつくのではないかと考えます。

そして、技術の進歩で新たな製品やサービスが生まれるサイクルも早くなっており、今日の成功が明日には陳腐化し始める昨今ですが、そういった時代だからこそ、他にないオンリー1を目指し続ける、このような姿勢と気概がメーカーとして非常に大切ではないでしょうか。