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挑戦は、母の贈り物

2015.12.15
「学びの泉」は私が担当するコラムです。
学びとは、「?>!」で表現される。「何故?」が先にあって、そこから学びが始まり、「なるほど、そうなんだ!」という一連の活動が学びだと思う。
 事前の疑問を意識していなくても、「!」(なるほど、そうなんだ!)はある。しかし、「?>!」に勝るものはない。普段から、いくつもの「?」をもっていれば、学びも大きいと思う。私自身は、このコラムを書くことで、多くを学ぶ。

母が亡くなって12年がたった。父と同様に、母からも多くの慈愛に満ちた言葉を頂いた。その中でも最も勇気を与えてくれた言葉は、
「好きなようにしてこい。嫌になったら帰ってこい。帰る場所はここにある。」
である。

20Wの電灯がついた!

私が生まれたのは島根県の隠岐の島にある小さな村である。

記憶は定かではないが、小学校の2年生のころに初めて家に電灯がついた。一家に20Wの電灯が一つである。居間の真ん中で、長くて黒いコードの先にその電灯がぶら下がった。その日の、そのまばゆいばかりの明るさが私の記憶に残っている。

それまでは、カンテラという灯油を燃やして明かるくする照明器具(石油ランプ)が唯一、夜を明るくしていた。私の毎日の仕事は、そのカンテラのホヤ(外側のガラスの筒)についた灯油の燃えカスの煤を掃除する事だった。今でもその記憶が残っている。

そのカンテラは、ろうそくの明かりに比べれば、雲泥の差で明るいが、少しの風でもゆらゆらと揺れる。だから、どうしても夜に勉強をすることはできなかったのだろう。私の記憶では、小学校から帰ってきてすぐに宿題をするか、朝早く起きて宿題をした記憶がある。

20Wの電灯がついた時の、今でも思い出せば懐かしくそして両親の想いを感じる出来事がある。私が居間の片隅にある勉強机で勉強をしていると、両親は居間の真ん中にある20Wの電灯の電線を伸ばして、私の机の上まで引っ張ってきて、天井からひもで吊り下げてくれた。その時、私がどのように感じたかは分からないが、今でもその時の記憶が残っている。今では、父や母の慈愛に満ちた行動が私の感情を揺さぶる。

カンテラ
カンテラ/石油ランプ
石油を金属製またはガラス製の油壺に入れ、口には口金(くちがね)をつけ、灯芯を差し込み点火し、燃焼部を「ほや」(ガラス製の筒)で囲って風で吹き消されるのを防ぐ。灯芯はねじで上下した。
すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であった。種類としては吊り下げるものと、据え置くものとがあった。(Wikipediaより)

「好きなようにして来い」と母は言った

中学の同級生の半分以上が集団就職で大阪や名古屋に行った。15歳の少年や少女が、初めて船に乗って島を出て、本土に行って、見知らぬ土地で働くということだ。今のようにTVで都会の情報がふんだんにあるわけではなく、スマホでいつでも連絡が取れるわけでもない。両親も本人も不安で一杯だったろうと想像できる。

私は、有難いことに育英会の奨学金の受給を得る事が出来、松江の高校に行かせてもらった。

中学を出て、松江の高校に行く時、隠岐汽船に乗って島を出た。今では禁止されているが、当時は紙テープを船上の乗客と波止場の見送り人が持って、ドラの音で船は岸壁を離れる。テープはその巻の長さが終わると波間にたれ落ち、別れを惜しむ。

私が船に乗る前に、船着場で母が言った言葉が「好きなようにして来い」だった。当時は随分小さい船で、特に冬場は日本海の時化で船は大きく揺れた。船室に寝ているとゴロゴロと転がったものだ。転がりながら妙に頭に残り、一生残る言葉になった。

そして、不思議なことに、「もう、帰れない」と思った。もし、帰るようなことがあったら、「嫌なことがあっただろう」と、送り出してくれた母に心配をかける。

大学も有難いことに、育英会の奨学金を頂いた。思い切りやらなかったら、無理をして大学まで出してくれた父や母に申し訳ない。だから、「好きなようにやる」と決めた。困った時や迷った時にはこの母の言葉が私に挑戦する勇気を与えてくれた。

ちっぽけな人生

父が入院して、母は隠岐の島から、私は大阪から出雲の病院に見舞いに通っていた時のことである。山陰線の電車の中で、母が昔話をした。私を松江の高校に行かせることにした時の昔話である。

当時の島の生活では、自給自足はできても現金がない。近所の多くの人が、無理をして私を松江の高校に出した母を見て、「すぐにお金が無くなって、かわいそうに子供(私のこと)は隠岐の島に帰ることになる。あなた(母のこと)は子供に可愛そうなことをした。」と言ったそうだ。母は私に、「その時は悔しくて、歯をくいしばってでもお前を大学まで行かせると、自分に言い聞かせた」と言った。やがて亡くなる父の見舞いの電車の中で、家庭をもって子供が出来て、ようやく母と昔話ができる年齢になった私に、母はそう言った。もう何も恐れることはない。父や母の苦労に比べれば、私のやってきた人生などちっぽけなものだ。

リー・トレビノ

36歳まで工場を走り回っていた私は、コンサルタントを一生の職業にしようと決心して、会社を辞めてコンサルタント会社に再就職した。収入で言えば、当時では相当優遇された給与から、一転して半分くらいになった。退職を申し出たら破格の待遇で慰留してくれたが迷いは無かった。

背中を押したのは母の言葉と陽気なメキシカン"リー・トレビノ"の言葉である。貧しいリー・トレビノは子供の頃からキャディをし、賭けゴルフで生計を立てゴルフに磨きをかけて、メジャーを制した。

ある時、記者がこう聞いた。「トレビノさん、このパットを入れたら(優勝賞金の)30万ドル!と思ったら、痺れるでしょう」と。リー・トレビノはこう応えた。「何で、今から手に入るかもしれないお金に痺れるのか。痺れるのは手元に1センとしか無い時に、1ドルを賭けたときだ。」

まさに至言である。今もらっているお金や地位、そして、それが続くと思っていることに痺れる必要はない。ちっぽけな話だ。私はこの言葉で吹っ切れた。

当時の新聞記事では、トレビノは若い奥さんとまだ小さい子供のために、「まだまだ働かなくてはならない」と、笑いとばしていた。

トレビノはテキサス州ダラスでメキシコ人の血をひく家庭に生まれた。彼は母親と墓掘り人であった祖父に育てられた。
 幼児期の生活は時折学校に通い、家族のために働いて金を稼ぐ事から成り立っていた。5歳の時から綿農場で働き始めている。数個のゴルフボールと古いゴルフクラブを与えてくれたおじからゴルフの手解きを受けた。彼はキャディと靴磨きの仕事で週30ドルを稼いだ。
優勝回数/メジャー:6勝、PGAツアー:29勝、その他:60勝 賞金王/1970年 (wikipediaより)

後があると思うから必死になれないという人がいる。しかし、後が無ければ怖くて挑戦できないこともある。後があると思うから、後ろに帰るところがあると思うから思い切り挑戦もできる。

だから、家庭でも会社経営でも金銭的な余裕が大事だ。本当にお金が無くなって、後がない状態になると挑戦もできない。そうならないように、人生も会社経営も先を見て先手を打たなくてはならない。父や母も、リー・トレビノも、後がない状態にならないように、「歯を食いしばって」努力をした。タダで転がり込んでくるような幸運は無いと思う。